アニメスタジオクロニクル No.13 ぴえろ 本間道幸

アニメスタジオクロニクル No.13 ぴえろ 本間道幸

アニメ制作会社の社長やスタッフに、自社の歴史やこれまで手がけてきた作品について語ってもらう連載「アニメスタジオクロニクル」。多くの制作会社がひしめく現在のアニメ業界で、各社がどんな意図のもとで誕生し、いかにして独自性を磨いてきたのか。会社を代表する人物に、自身の経験とともに社の歴史を振り返ってもらうことで、各社の個性や強み、特色などに迫る。第13回に登場してもらったのは、ぴえろの本間道幸氏。創業期にぴえろへ入社し、数多くのジャンプアニメを手がけてきた本間氏が見据える、アニメ業界の未来とは。

取材・文 / はるのおと 撮影 / 武田真和

新しいものを作ろうというエネルギーに満ちていた創業期

ぴえろは初代社長の布川ゆうじ氏が、タツノコプロから独立して設立する。1979年。本間氏が入社する4年前のことだった。

「布川は一昨年に亡くなりましたが、創業当時の話はよく聞いていました。これは偶然ですが、布川は山形県酒田市で僕は山形県鶴岡市の出身。どちらも庄内地方から出てきていた同郷の間柄でした。彼は酒田商業高校の美術部で活動していて、クリエイティブの仕事をしようと東京に出てきて、なぜかマネキンの会社に入ったらしいんですけど(笑)。その後にアニメーターとして活動し始め、タツノコプロでは『ガッチャマン』や『タイムボカン』シリーズを作っていたけど、それまでとは一線を画すクリエイティブ能力の高い制作会社を作ろうと独立して。吉祥寺の小さなマンションの1室から始まったそうです」

1980年にぴえろにとって最初の作品となる「ニルスのふしぎな旅」の放送がスタート。1981年にはマンガ原作の「うる星やつら」、1983年にはオリジナルの「魔法の天使クリィミーマミ」とヒット作を連発する。原作のある作品だけでなく、早期にオリジナル作品を生み出した理由とは……。

「布川は映像を作るだけでなく、そこでどうマネタイズしていくかを考えていました。そのためにはしっかりと作品の権利を持つ必要があり、オリジナル作品のほうが都合がよかった。当時からモデルケースはいろいろあって、ディズニーは人気キャラクターの権利を持ち、その映像を作って商品化もする。タツノコプロも同じようにオリジナル作品を作っていたわけで、在籍していた布川がそういった発想になるのも当然ですよね。

ただ早々に『うる星やつら』が大ヒット。布川も『原作のある作品もアリかな』と思ったはずで(笑)。そこからだんだんと原作作品のウェイトが大きくなっていきました。でもその両輪でスタートできたのはぴえろにとって大きかったです。ビジネス的に成功しながら、『魔法少女』シリーズとして毎年違うものを作るという挑戦もできましたから」

1983年、ヒット作を生み出し続けるぴえろに本間氏が入社する。当時の彼に、この新進気鋭のスタジオはどう映ったのだろうか。

「僕が入ったときには社屋が小金井の汚いプレハブに移っていました。その頃は会社全体で25人くらいいて制作が15人前後。当時は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」公開の前年で、押井守監督や脚本家の伊藤和典さん、キャラクターデザイナーの高田明美さんをはじめとした「神」と呼ばれるようなクリエイターが間近で仕事をしていて圧倒されて。その一方で世界初のOVAである「ダロス」の制作もスタートを切っていた。近くには東映動画(現東映アニメーション)や東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)、日本サンライズ(現バンダイナムコフィルムワークス)といった大きなプロダクションがありましたが、そういった大手プロダクションと互角に戦うため、貧しくはあるけど新しいことをしようというエネルギーに溢れた会社でした」

ぴえろを支え続けたジャンプアニメ、その原点

本間氏が先に語ったとおり、ぴえろは1980年代後半から原作のある作品を多く手がけていく。中でも、1990年代の「幽☆遊☆白書」、2000年代の「ヒカルの碁」「NARUTO-ナルト-」「BLEACH」といった一連の週刊少年ジャンプ連載作のアニメこそ、ぴえろにとってのターニングポイントだったという。

「映像プラットフォームが広まる時期と重なったおかげで、『幽☆遊☆白書』は放送しただけでなくLD-BOXやVHSなどのメディアでも盛り上がったんですよ。そのほかにもメガドライブやスーパーファミコンなどのコンシューマゲームもたくさんリリースされました。そして『NARUTO-ナルト-』や『BLEACH』は海外で日本アニメの需要が高まった時期に放送され国内外で大ヒットになりました。そんなふうに弊社のジャンプアニメはアニメ業界が変化を迎える時期とちょうど重なって大ヒットし、ぴえろを支え続けてくれました」

ぴえろにとって最初のジャンプアニメは、1987年に放送された「きまぐれオレンジ☆ロード」だ。それは本間氏のキャリアにとっても重要な作品だった。

「布川が『きまぐれオレンジ☆ロード』で僕をプロデューサーに抜擢してくれたんですよ。でもいろいろあって外れることになって、そのときに僕は『もうこの業界をやめよう』と思ったくらいで(笑)。制作デスクとして作品に関わることとなり、また、その時期から少し営業寄りの仕事が増えていきました。作品ごとにどうマネジメントしていくかということを考え始めた時期です」

ありがたいことに僕は愛されることには長けていたみたいで、営業系の仕事をしているうちに仲間もいっぱいできた。テレビプロデューサーや書籍編集者、代理店、スポンサーの方々、音楽プロデューサー……みんなが助けてくれたおかげで、自分ひとりでは絶対にできなかった仕事もできた。彼らは取引先ではなく仲間たち。そんな人々と知り合うきっかけになったんだから、振り返ってみると『きまぐれオレンジ☆ロード』のプロデューサーを外されたことは個人的には大きなターニングポイントだったと思います」

現社長にとっての大きな転機であり、そこで得た信用がのちにジャンプアニメを手がける下地にもなった「きまぐれオレンジ☆ロード」。同作こそが、現在のぴえろにとってもターニングポイントと言っていいだろう。

2011年に迎えた最大のピンチ、そして翌年の二代目社長誕生

作品以外の出来事でのターニングポイントはなんだったか。この問いに、本間氏は2011年3月に起きた未曾有の災害を挙げる。

「東日本大震災のときは非常に危機を感じました。当時弊社は『NARUTO-ナルト- 疾風伝』や『BLEACH』など週4本以上制作していたけど、制作ラインがさすがに混乱し、局によっては放送もなくなり収入も不安定になったんです。それが2カ月続いて、社員の給料も払えなくなりそうになりました。『もう、一度解散するしかないかな……』という状況でしたが、そこで支えてくれたのが業界の仲間と、融資してくれた銀行、そして制作費以外の二次収益でした。

あれから危機管理に関しては、相当に気をつけるようになりました。今思い出してもよく乗り切ったなと思うし、その経験を踏まえて収入構造を切り替えたおかげでコロナ禍では過去最高売上を記録できた。みんな、家から出られなくなっても配信でアニメを観てくれたりゲームに課金してくれたりしたんですよね。しかも今や世界規模で」

現在のぴえろでは、動画配信の海外展開が大きな収入源になっているという。その稼ぎ頭は「NARUTO-ナルト-」シリーズだ。

「今のぴえろの売り上げの30%は海外からの売り上げです。特に『NARUTO-ナルト-』シリーズがすごい。『NARUTO-ナルト-』『NARUTO-ナルト- 疾風伝』合わせて700話を超えていて、『BORUTO-ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS』も含めると1000話以上となります。ここまで大きなシリーズとなると、10数話のTVアニメとは収益の構造が変わってきます。何年も続く長期シリーズになるような偉大な作品と巡り合い、制作させていただいたことに感謝が尽きません。

ただ、そういった海外でウケるような作品や長期シリーズになるようなものを狙って作るのは難しい。もちろん頭の半分くらいは狙うけど、それだけを考えてアニメを作るとどんどんつまらなくなる。『海外に持っていくためにタバコは吸わせない。バイオレンスはちょっと弱めに。セクシーな表現も避ける』。そんなふうに数々の表現が縛られた日本のアニメなんて、海外の人も観たいわけがないですよ。日本でヒットする作品こそが海外でもヒットするんです。アニメを作る際のアプローチを間違ってはいけないと僕は思っています」

ぴえろにとってのターニングポイントになった東日本大震災の翌年、本間氏はぴえろの社長に就任する。

「布川から『次はお前だぞ』と言われたのが2008年か2009年か。それからそのつもりで仕事していたものの、しばらく間が空いたので『社長交代はいつなの?』なんて思うこともあったりして(笑)。でも僕は布川が社長のぴえろが大好きだったので、『このままずっと側で支えながら自分もアイデアを出してそれで少し会社が動くくらいでもいいな』なんて考えていたんです。ただ、そんなこともありつつ2012年に布川から正式に社長就任の話がありました」

社長就任から10年で売り上げは倍以上に

社長の交代に伴ってぴえろの経営方針は大きく変わる。就任にあたり、本間氏が強く抱いていたのは「お金」に対する思いだった。

「カッコ悪いけど、一番考えていたのはお金のことです。アニメ業界はずっと貧しかった。会社もそうだし、僕たち社員もそう。報酬は少なく、残業が多い。汚い、きつい……そんな世間のアニメ業界に対するイメージ通りだったのが悔しくて仕方なかった。でもアニメ業界に夢を持って入ってきてくれる社員や手伝ってくれるクリエイターに対して、経営者としてちゃんと返さないといけない。僕も含めて、誰もがこの業界にいて、そしてこの会社にいて自分が望む人生をまっとうするビジョンが見えずらかったけど、そんな当たり前ができるようにしたい。経営者になって最初に考えたのはそのことでした。

幸い、ぴえろにはこれまで培ってきた作品作りの力だけでなく、作ってきた作品という大きな資産がある。それを最大限に活用し、10年間で年間の売り上げを倍増しようという目標を設定しました」

そして本間氏は、ぴえろの売り上げを2012年からの10年で倍以上まで伸ばすことに成功する。

「決して僕が経営者として優秀だったわけではありません。社員が丁寧なアニメ作りをしてくれたおかげで数々のヒットが生まれたし、業界の変化も大きかった。従来の欧米市場だけでなく中国などアジア地域も著作権を意識し始め、また動画配信も普及したことで海外市場が一気に広がって。欧米だけが輸出先だった頃から海外売り上げは倍増しました。それとIPを使った商品プラットフォームのバラエティも増えて、アプリゲームを始めフィギュアやカード……そんなふうに展開できる商材のプラットフォームが何倍にもなりました。つまり、1つのIPが生み出す収益が、『魔法の天使クリィミーマミ』の頃とは大きく変わったのです。

僕たち経営者がしたのは、プラットフォーマーの側にいて多くの情報を得ること、そして社内にそうした分野に注力する機能を置いたことくらいです。海外事業、配信事業や商品化を専門で扱う窓口を作って、機会を損失することなく世界中のお客様に作品を観てもらう、キャラクターの商品を手に取ってもらう。そんな効率よくマネタイズできるスタッフがいることが、今のうちの会社の強みなのでしょう」

「負けたくない」、その一心で改めて始めた新たなアニメ作りへの挑戦

経営面だけでなく、作品制作の面でもぴえろは変化を続けている。2010年代は「NARUTO-ナルト-」や「BLEACH」のようなロングランの作品を続けながら、並行して別のラインで「東京喰種トーキョーグール」や「おそ松さん」といったバラエティに富んだヒット作品も生み出した。そして2020年代はさらなる変化を迎えた。

例えば、2004年に始まった「BLEACH」は放送期間を空けずに続いていたが、2022年の「BLEACH 千年血戦篇」や2021年からの「キングダム」シリーズはクールごとに分割して制作するようになっている。その背景には「鬼滅の刃」の大ヒットに覚えた本間氏の危機感があった。

「『鬼滅の刃』はアニメ業界にとって大きな転機だったと思います。潤沢な予算と、しっかりとした時間をかけて作ったハイクオリティな作品が放送されて大ヒットし、幅広い年齢層の人が視聴した。『鬼滅の刃』が発表された前と後では物の作り方を変えないといけないと如実に感じました。さらに同じような規模感で他スタジオもハイクオリティな作品を発表しており、しかもそれが民放で観られる環境が日本にはある。

これまでのぴえろのように1つの作品を長く作ることは間違いなく素晴らしいことだと思います。同時に大きな予算と時間のランニングコストには大きなリスクを伴う。しかし、従来と同じ作り方で、そうした新しい作り方をしている作品と戦えるのかと。おそらくブランドを落とすことになるでしょう。負けたくないですよね。僕もぴえろもNo.1でありたい。そんな思いがあり、『BLEACH 千年血戦篇』を作るにあたっては、会社全体で新しいアニメ作りに臨みました」

ぴえろの新たな試みは功を奏し、2022年、2023年に1クールずつ放送された「BLEACH 千年血戦篇」はハイクオリティな映像で好評を博す。本間氏も現在の手法に手応えを得ており、今後の作品にも確かな自信を見せた。

「『BLEACH 千年血戦篇』は海外でも大きな反響を呼びました。海外のイベントに行くと、僕がヒーロー扱いされるくらいで(笑)。ただ、それはぴえろの社員全員が意識を変えて、本気で作品を作ってくれているおかげです。4月から放送されている『烏は主を選ばない』もそうした新たなスタイルで作っている作品なので注目してほしいし、現在一旦休んでいるシリーズ作品も数多くありますが、新しいアニメ作りに挑んでいるぴえろのこれからにご期待ください」

本間道幸(ホンマミチユキ)

1961年2月26日生まれ、山形県出身。ぴえろ代表取締役社長。1983年にぴえろに入社したのち、「まいっちんぐマチコ先生」「うる星やつら」などの制作進行としてスタート。「星銃士ビスマルク」「きまぐれオレンジ☆ロード」「ヒカルの碁」「BLEACH」「NARUTO-ナルト- 疾風伝」を手がける。2012年にぴえろの社長に就任した。